予兆は、いつも絶望のとなりに

日本ハンズオンの大久保です。
絶望の中で、ふと小さな“予兆”を感じて、ここまで歩いてきました。
成し遂げたことは、まだ何もありません。
それでも、私は前に進み続けます。
大学を卒業し、老舗メーカーに就職するまで、私は「想像が及ぶ範囲のレールの上」を歩いてきました。指示されたことをこなすだけの毎日。社会人2年目の春を迎えても、「何かを成し遂げた」という実感は一向に湧いてきませんでした。
そんなとき、社内でも誰も手をつけたがらなかった葬祭事業の立ち上げに、社会人2年目の私が挑戦することになりました。特別な使命感があったわけではありません。ただ、「成果が出ないことに慣れてしまう前に、どこかでギアを変えなければ」と、自分なりに危機感を抱いていたのです。正直、「誰もやらないなら、やってみよう」――その程度の素朴な気持ちでした。
知識も前例もない中、私は業界に詳しい方々のもとへ何度も足を運び、現場の情報を一つひとつ拾い集めていきました。やがて営業ルートができ、他社と連携して割賦払いのファイナンススキームも構築。都内から始まったその取り組みは、横浜、名古屋と広がり、気がつけば私の主戦場になっていました。
成功するかどうかなんて、考える余裕すらありません。ただがむしゃらに、目の前のことに夢中で取り組んでいました。振り返ってみれば、それは「選んだ道」ではなく、「残された道」だったのだと思います。2年間での受注総額は8億円、粗利も1億円を超えていたと記憶しています。とはいえ、年商1兆円を超える企業の中では、取るに足らない数字だったでしょう。それでも、「誰もいなかった場所に、自分の足跡を残せた」。その実感は、私にとって確かな成功体験となりました。
けれど、市場はやがて飽和していきます。私自身の情熱も静かに冷めていきました。もしかすると、最初から狙っていた市場が小さすぎたのかもしれません。とはいえ、「もう一度、どこかに賭けてみよう」という気持ちは湧いてきませんでした。
そんな矢先、生命保険のフルコミッション営業の話が舞い込みました。再びギアを入れ直すタイミングが来ている気がしていました。私はその世界に飛び込みました。でも、現実は厳しく、全然売れませんでした。
「この業界に骨をうずめる覚悟はない。でも、他にやりたいことがあるわけでもない」――そんな中途半端な状態で足踏みしていたとき、コロナ禍が訪れ、社会全体が一時停止しました。多くの人にとって大変な時期だったと思いますが、私にとっては、強制的に立ち止まることができたという意味で、一つの救いでもありました。
当時、明確な志があったわけではありません。ただ、「環境を変えなければ」という気持ちだけはありました。スキルといえば営業しかなかった私は、「営業代行か、研修事業でなんとか食いつなぐしかないだろう」と考えていました。
外に出られない日々の中で、私は本を読み漁り、各種講座を受け、マーケティングや経営の基本を一から学び直しました。同時に、自分でWEBサイトの編集にも手を出し始めました。学んだ知識を、過去の実務経験と照らし合わせて整理するうちに、それまで断片的だった知識や感覚が少しずつつながり、「線」になっていく感覚がありました。
幸運だったのは、昔からの知り合いやツテを通じて、少しずつ仕事をいただけたことでした。これは本当にありがたいことでした。ただ、社会の中で自分がどんな存在なのかを見つめると、「何者でもない」と感じることも多く、世間的な認知はゼロに等しい状態でした。
そんな折、ちょうど生成AIが世に出始めた時期でした。私はすぐに興味を持ちました。面白そうだ、とかではなく、なぜか本能的に「これは触ってみなきゃ」と思ったんです。試してみると、驚きがありました。これまで「これは無理だろう」「自分にはできない」と感じていたことが、もしかすると“自分にもできるかもしれない”という感覚に変わっていったのです。
これは大きな変化でした。自分が変わるというより、世界のほうがこちらに歩み寄ってきたような、不思議な感覚。そこに、静かな希望を感じました。その希望は、いまもなお膨らみ続けています。
そして2024年。私は、これまでの経験と、そこから得た“再現可能な知恵”を整理し、支援サービスとして体系化しました。中小企業や起業家、新規事業に挑む人たちの「挑戦」が、きちんと「成果」へとつながるよう、マーケティングから広告宣伝、人的セールスまでをワンストップで支援する体制を整えたのです。
私は、「誰にも知られていないことの苦しさ」を、身をもって知っています。だからこそ、誰かの価値が、正しく、必要な相手に、必要な形で届くための「伝える仕組み」を整えること。それが、いま私たちの取り組んでいる仕事です。